生きること 食べること
3月11日。
あの日、人生を“変えた”女性の物語。
あの日、僕は後期大学受験のため大阪にいて、揺れを感じることもなく、
その後もテレビで報道を見ながらも特に何かを感じることもなく
浪人時代ぬくぬく過ごし、大学生となった。
でも、「この生き方でいいのかな」っていう想いが漠然とあった。
なんとなく社会貢献したい。いや、そんな大きなことでもなく、
「誰かの役に立ちたい」
ふわっとそんな想いを抱えていた。自分が一番大事なんだけど。
そして、大学では出会いに導かれ、パラグアイ行ったり、トンガに行ったりして、いわゆる“国際協力”の世界にちょっとだけ触れた。
国際協力がしたかったわけではなく、「人の役に立つ」場所が海外になっただけで
それは運命というか、ご縁だったと思う。
んで、これもご縁なのか、
大学最後の年、今はなき野毛の名店(迷店?)麺房亭でのバイト中、
例によってお客さんがおらず、いつも通り店においてある本を読みふけっていたときに、この本出会った。
衝撃だった。
この本の著者、畠山千春さん(@chiharuh)は震災を機に生き方を変えた。
「食べ物を自分でなんとかする」
それを追求することは、正直相当しんどいことになると思う。
なぜなら生命と向き合うことだから。
実際この本を読んでいても、心をぎゅーっと掴まれている感覚になる。
普段、スーパーで安く食品を買い、テキトーに料理して、食事をする自分。
どんな過程でその食材が目の前にあるのかを知ることもない。
知ろうともしない。
でも
自分の身体を形作る、人間にとって不可欠な行動なのに、それでいいのかなって心の底では思っている。
この本では、僕と同じような状況から
震災を機に、動物の解体からはじめ、狩猟の道へと進んでいく一人の女性の想いや葛藤が綴られている。
動物と直接的な関係を結ぶことを大事にし、
徹底的に生きることと向き合う姿がとてもかっこいい。
狩猟を批判する人もいらっしゃるけれど、人間はいろんな生命をいただいて生きている中で、そういう現実に蓋をして「生命を奪う」という一瞬の行為だけを切り取ることはナンセンスだと思う。
食べること、そのものと同化する、という考え方が宗教チックというかスピリチュアル感あるけど、すごいしっくりくる。(体感していないけど)
この本を読んで、狩猟をしたい、というか
漁師飯が食べたいと思い
2018年年明け早々、滋賀県の漁師さんグループに同行させてもらったけれど
みなさん、自然への敬意がある方々でした。
結局そこでは、解体するのは見られなかったけど、
夜、ご馳走になった鶏が美味かった。。
狩猟の目的は、別に生命を奪うことに快楽を感じているわけでは決してなくて、
シカやサルなど実際に畑を荒らし、農家さんが困っている。
シカが増えたのは、オオカミが絶滅してしまったからで、
オオカミが絶滅してしまったのは、人間の開発によるもの、
シカが増えると土砂災害とかも起こりやすくなる。
結局、巡り巡って困るのは人間なのに、見て見ぬ振り。
都心にいると、自分ゴト化できない問題かもしれないけど。
一旦知っちゃうと気になる。
気になるけど、そこに向き合えない自分。
なんだかな、って心がズーーーーンとする。
食べ物の問題、自然の問題、生きることの問題
この本は色々考えさせられることが多い。
畠山さんの根底にあるのが、
「絶対に生き抜いてやる」という「生きることへの強い執着心」(p.11)
であって、
「世の中がどれだけ変化しても、たとえお金という手段が使えなくなっても、自分の足で立ち、幸せに暮らしていく生き方」(p.11)
を実践している彼女をとても羨ましく思う。
これから理想的な生き方なような気がする。
パラグアイでの生き方も、トンガでの生き方も、今の生活も、
そこにいる人たちは、そこでの生き方を楽しんでいる。
というか、パラグアイやトンガで動物を絞める瞬間、逃してしまったのめっちゃ後悔。
うーーーーーーーん、今の生き方でいいんかなぁ。
ひきこもりが一番好きなんだけども、もうちょっといろんな人に会ってみよう。
以上