全僕にできる恩回し

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読書記録や住んでるシェアハウスの暮らしをつらつらと。

『予想どおりに不合理』

ダン・アリエリー著 熊谷淳子訳

 

GWっすね。

本を数冊図書館で借りてて、延滞してしまってるので、

気が気でありません。

 

その本の一冊がこちら。

 

 

 

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

 

 

 

 

タイトル面白くないっすか?

割と有名な本らしいのですが、一言で感想をいうと、

 

 

行動経済学おもろ!!

 

 

です。

 

これに尽きるので、今回のエントリーはここでおしまい。

 

以上

 

 

 

 

 

 

 

って終わると流石に意味がないので、

もう少しだけ書きます。

 

 

確かに!!と思ったのが、万年筆とスーツの話。(p46~参照)

 

万年筆を買おうとして、コンビニで2000円で売っていた。

だけど、同じものが10分歩いた文房具屋さんで1000円で売っていたことを知ったら

ちょっと迷うけど、僕なら10分歩いて1000円の万年筆を買う。

 

だって半額だよ!

 

 

一方、スーツを買おうとして、いい感じの10万円のスーツが見つかる。

それが10分歩いたところにあるお店だと、99000円で買えるそうだ。

 

どうします?

 

スーツは買いに行かないんじゃないっすか?

 

っていう話。

 

合理的じゃないっすよね。同じ10分で同じ1000円じゃん。

 

でもこれは予想されること。

人間ってこんなふうに意思決定しちゃうもんなんですって。

不思議。

 

 

 

 

 

あと、今回何より心に刺さったのが、

市場規範と社会規範の話。

 

うまく説明できないのが申し訳ないんすけど、

 

ホームパーティーでお金を払う?

家事やセックスにお金を払う?

そんなんしたら、一気にドン引きするよね、って話です。

 

親密な人間関係に市場規範を持ち込んじゃダメ。

 

 

広告とPRの関係も近い気がする。

広告なら市場規範として割り切れるけど、

PRの裏に市場規範の世界が見えたら、PRの効果って急降下しそう。

 

 

 

さらに、この考え方って、

働き方にもすごく当てはまる気がして心がギュってなった。

 

 

「考えの中に一旦市場規範が入り込むと、社会規範は消えてしまう」(p.109)

「社会的交換に市場規範を導入すると、社会規範を逸脱し、人間関係を損ねることになる。一度この失敗を犯すと、社会的な関係を修復するのはむずかしい。」(p115)

 

ボランティアが特にそうかもね。

 

変にお金もらうんだと、やる気が下がるかもしれない。

やる気が下がるというより、

「仕事だ」って感覚が強くなって、割に合う/合わない、という考えが出現してしまう。

 

 

 

 

さらにさらに、

 

「今日の企業は、社会的交換をつくりだすことに利点を見いだしている。今日の市場では、わたしたちは無形のものをつくる担い手だからだ」(p.120)

 

昔は違った。労働は分かりやすく、時給制で、目に見える形となるので、明快な市場的交換であった。

 

社会規範を仕事に当てはめると「やりがい搾取」と言われるようなことが起こる。

 

給料のためじゃない、「楽しいからやる」とか「社会貢献のため」とか思い込んじゃうと、一方でどれだけでも働かないといけないんじゃないかって思っちゃう。

 

それができない俺は、どうしようもないクズだ、無価値な人間だって思っちゃう。

 

結局俺は、口では偉そうなこと言ってるけど、本音ではお金が欲しくて欲しくてたまらない人間なんだ。

 

今までやってきたことや、積み上げてきた人間関係も全て市場規範の世界でやってきたんだ、って思っちゃって、、、、、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい、ちょっと前の僕自身の話でした。

 

 

 

社会規範と市場規範は混ぜちゃダメ、絶対。

 

でも一方で社会規範(いっしょに何かをつくりあげる興奮など)のほうが市場規範(昇進ごとにだんだん増えていく給料など)より強い企業の方が、勢いがあったり、いい感じの企業だったりする。と例えばGoogleとか。

 

 

 

いやできる人はいいんだけど、

僕は意識して、市場規範と社会規範を割り切らないと潰れちゃう。

 

その上でバランスよくやっていきたい。。

 

むずいなー!

 

一生掛けた、課題なのかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もういっこ、個人的にタイムリーだったので。

高価な所有意識について。 

 

大抵の人は、自分の持っているものに惚れ込んでしまう。

→自分がした選択を正しいものと信じたいから?

 何かを手にした途端に愛着を感じてしまうことが多い。

そして、手に入るかもしれないものではなく、失うものに注目してしまう。

だから自分の所有物を手放さないし、価値が高いもんだと思ってしまう。

 

 

最近、僕のMacBook Airを6万で売って!と言ってくれた人がいて

もう4年も使ってるし、そろそろ買い替え時かなと思い、一旦は承諾したんですけど

 

手放すとわかった途端、急にもったいなくなっちゃって。

 

まぁ愛着というより、

今売られてるパソコンがそんな魅力的じゃないし、お金ないし、

今のパソコンでなんら問題ないや、ってことで売るのやめちゃいました。

 

投資がうまい人なら、潮時で売って、次のパソコン買うんやろなぁとか思いながら、

このパソコンが壊れるまで使うことにしました。

 

 

ちなみに、帰省するたびに両親に「(20年近く住んでボロくなってきて、かつ大きさを持て余している)実家を売ったら?」と話すんすけど、多分手放さないだろうなぁと確信しちゃいました。

 

絶対、早めに売って、二人でこじんまりした、新しめで綺麗な家に引っ越せばいいのにと思うんすけどね。

 

人は何か問題意識・当事者意識がないと変わらないよね、とつくづく思います。

 

まぁ変わらないことが、変わろうと色々苦心するより、楽で幸せなのかもしれません。

 

(日本人はタンス貯金に代表されるような、困った時のためのお金を絶対的に信じてるのも、それに関係しているのかも。変わらないことで起こりうるリスク対策として貯金している。それが本当にリスク対策になっているか深く考えることもせずに。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回の本は事例が多かったのですが、ちょっとはしょりながら急ぎ足で読んだので

 

また読む時が来るかもです。

 

 

 

あと全然関係ないけど、

本文で紹介されてた、ウォルト・ホイットンマンの詩集『草の根』の詩のタイトルが妙に惹かれたのでメモ。

 

「今ぼくを引きとめる君が誰であろうと」 

 

 

以上